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麻咲
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41
性別:
女性
誕生日:
1983/05/03
職業:
フリーター
趣味:
ライブ、乙女ゲーム、カラオケ
自己紹介:
好きなバンド

janne Da Arc
Angelo
犬神サーカス団
シド 
Sound Schedule
PIERROT
angela
GRANRODEO
Acid Black Cherry 他

好きな乙女ゲームとひいきキャラ
アンジェリークシリーズ(チャーリー)
遙かなる時空の中でシリーズ(無印・橘友雅、2.藤原幸鷹、3.平知盛、4・サザキ) 
金色のコルダシリーズ(1&2・王崎信武、3・榊大地、氷渡貴史)
ネオアンジェリーク(ジェット) 
フルハウスキス(羽倉麻生) 
ときめきメモリアルGSシリーズ(1・葉月珪、2・若王子貴文) 
幕末恋華シリーズ(大石鍬次郎、陸奥陽之助) 
花宵ロマネスク(紫陽) 
Vitaminシリーズ(X→七瀬瞬、真田正輝、永田智也 Z→方丈慧、不破千聖、加賀美蘭丸) 
僕と私の恋愛事情(シグルド) 
ラスト・エスコート2(天祢一星) 
アラビアンズ・ロスト(ロベルト=クロムウェル) 
魔法使いとご主人様(セラス=ドラグーン)
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2008/01/16 (Wed)
「有砂様は間違っています」

 もう一度言った。

「美々お姉さまと仲直りできたのも、お母様をお許しになることができたのも、蝉様を連れ戻すことができたのも……有砂様がそうなさりたいと望んだからでしょう?」

「望めばなんでも叶うわけやない」

「望まなければ叶いません」

 反論の余地を与えることなく、畳み掛けるように言葉を重ねる。

「有砂様は期待を裏切られることが怖いと以前おっしゃった……けれど、その恐怖を克服して、欲しいものに素直に手を伸ばすことができるようになられたでしょう?
錯覚などではなく、有砂様は確かにお強くなられたのです」










《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【5】










「……お嬢には一体何回叱られたやろうな」

 たっりと間をおいて、有砂は口を開いた。
 日向子は小さく笑って、

「……有砂様は、いつも目が離せなくて困ってしまいますわ」

 そう返した。
 有砂はアルコールで少し充血した目を伏せる。

「……危なっかしいてかなんか? ごもっともやな」

 ふっ、と口許に苦笑を滲ませる。

「正直な話、自分でもこんなに落ち込むとは思てへんかった……なんとなく続けてきたバンドに……いつから自分がこんなに思い入れを抱いとったんか……ようわからん。ただ」

「……ただ?」

「……こんなオレみたいな男をずっと見限らずに仲間扱いしてきたあいつらのことは、かなり尊敬するわ。お嬢も含めてな」

 有砂らしいひねくれた言い回しではあったが、それは彼なりにメンバーを思う本音の言葉だった。

 日向子はまた小さく笑う。

「……仲間扱い、もなにも、有砂様はれっきとした仲間ですわよ」

「……そうやな」

 有砂は意外なほどあっさりとそれを受け入れた。

「オレはこの先も、あいつらの背中が見えるところ以外で、スティックを握る気にはなれへんと思う」

「有砂様……」

「……まだ間に合うならオレは……」

「間に合いますわ……有砂様が望むなら……」

 日向子の言葉にはしっかり頷きつつも、有砂の目はいよいよ虚ろになり、どうやらすぐ側まで睡魔が押し寄せているようだった。
 頬杖で支えていても、今にもかくっと頭を垂れてしまいそうな様が妙に可愛らしく感じられて、日向子はいよいよ顔がほころんでしまう。

「帰りましょう? 有砂様。お店の側でわたくしの運転手が待ってますの」

 少し冗談めかしてそう促すと、有砂は眉根を寄せて目を半眼させた。

「……この場所教えたん、あいつか……まあ、他におらんやろうけど」

「さあ、お立ちになって」

 日向子は小さな体で懸命に有砂を支えて立ち上がらせ、そのまま寄り添いながら歩き出す。

 斜め上で有砂が呟く。

「……あいつならしゃあないかな……と思ってた」

 半分一人事のような、不明瞭な呟き。

「……けど今は……やっぱり譲られへん……。
『仲間』を取り戻したら次は……が、欲しい」

 何が欲しいと言ったのか、日向子には聞き取れなかったが、子どもに説いて聞かせるように言った。

「……有砂様の望みが全て叶うようにわたくしもお祈りしますわ」

 有砂はふっと軽く吹き出して、酒臭い溜め息をもらした。

「それはどうも」












 有砂を一先ずマンションに送り届けた後で、日向子は雪乃の車で紅朱の部屋とその周辺、よく出掛ける場所に全て連れて行ってもらったが、残念ながら彼を見つけることができなかった。

 浅川兄弟の実家にも連絡したのだが、帰っていないと言う。
 まだ兄弟に起こった事件を知らない二人の母親には心配をかけないように適当にごまかしておくことにした。

 とはいえ、あの高山獅貴のバンドに入るとなれば、すぐに全国ニュースで知れ渡るのだろうが。

 そうなる前に、どうにかして玄鳥を説得してheliodorに帰ってきてほしい……日向子はそんなことを願っていた。

 だがまずは紅朱を探して話をしなくてはならない。

 今最も傷付いて、最も深い失意に囚われているのだろう紅朱を。

「一体どこに行ってしまわれたのかしら……」

 後部座席のドアに頭をもたげて嘆息する日向子に、

「お疲れでしょう。今日のところはお部屋までお送り致します」

 運転席の雪乃が気遣うように声をかけた。

「でも……」

 日向子が口を開いたその時、ちょうどバッグの中で携帯電話が振動を始めた。

 サブウインドウの表示を見て、慌てて通話ボタンを押した。美々からの電話だった。

「お姉さま、何かわかりましたの?」

 どこか興奮気味の美々の言葉に耳を傾け、相槌を打っていた日向子も、

「……まあ、本当ですの!?」

 思わず声が大きくなってしまう。
 驚いて、バックミラーで雪乃が後ろを確認する。

 日向子もまた視線を雪乃に向け、まだ通話中にも関わらず気持ち早口で告げた。

「雪乃、行き先変更ですわ。お屋敷に向かって頂戴」












「黙っていて申し訳ありません。そのことはくれぐれもお嬢様には内密に、と旦那様が……」

 白髪混じりの頭を掻きながら、小原は実に申し訳なさそうに頭を下げた。

「私と同じだったというわけですが……」

 雪乃が口を開く。

「先生はかつて、身近な人物が軽音楽に携わっていることを知って、お嬢様が影響を受けることを嫌っていらっしゃいましたから」

「では確かに、事実なのですね?」

 日向子が念を押すように問うと、

「間違いなく、その粋というロックミュージシャンは私どもの娘、小原花純(コハラ・カズミ)でございます」

 釘宮の屋敷の応接室で、思いの外クラシカルな本名とともに発覚したベーシスト・粋の秘密。

 それはheliodorというバンドと釘宮家との奇妙な因縁をより一層強めた。

「ねえ、小原。粋様と大切なお話をされたいとおっしゃっている方がいますの。かつて粋様にベースの手解きを受けていた殿方ですのよ。
連絡を取って頂くことはできませんこと?」

 必死に訴える日向子に、小原は、

「連絡を取るくらいはわけもないことでございますが、あれは気まぐれで手に負えないはねっ返りですので……了承するかどうかは確約できかねますよ」

 と、ますます申し訳なさそうに答えた。
 日向子は優しく微笑んで見せる。

「構いませんわ。どうかお願いね、小原……それと、もう一つ聞きたいことがあるのだけど」

「なんでしょう?」

「……お父様がひどく落ち込んだりしたところを見たことはあって?」

 あまりにも突拍子のない問いに、小原も雪乃もいぶかしげな顔をしたが、日向子は真面目だった。

 ややあって小原も真面目な顔で、

「奥様がご健在な頃は、旦那様が塞いでおられる際にはいつもあの方が励ましておいででございました。
奥様が亡くなられてからも、時折、奥様の墓前に佇んで物思いに耽られることがございますよ」

 小原の言葉に黙って耳を傾けていた日向子は、何事か思い付いたような顔で頷いた。

「そう、重ね重ねありがとう、小原」

「お嬢様……?」

 真意を知りたそうに目をすがめる雪乃に、日向子は確信に満ちた笑顔で振り返った。

「あの方はお父様とよく似ていらっしゃるから……きっと同じようになさる筈だわ……」










「どないしたん? マイサン。めっちゃ眉間に皺寄ってるケド、二日酔い?」

「……」

 実父の読みはまるっきり否定出来なかったが、有砂は知らない香水の残り香が漂うベッドの足を思いきり蹴った。

「あかんて、こら。キミはホンマ車は蹴るは、ドア壊すは……今度はわざわざベッドを破壊しに来たん??」

 そのベッドの上で横になっていた秀人はそうぼやくと、面倒臭そうに上半身に何も着ていない身体を起こして欠伸した。

「……おい、クソ親父。答えろ。ジブンが高山獅貴にうづみを紹介したんやろう?」

 赤みがかった痣の残る首元を掻きながら、秀人はあっさりと、

「そうやで」

 と認めた。

「獅貴とは、あいつが音大に在籍しとった頃に知りおーて、未だに友達やからなあ。
新しいバンドのドラマーがまだ決まらんゆうて難儀しとったから、洒落で紹介したんや。それがどないしたん?」

 どうやらうづみが本当にメンバーに採用されたという事実まではまだ知らないような口ぶりだ。

「……相変わらずろくなことせん男や……」

 有砂は苛立ったように吐き捨てた。

「めっちゃ面白そうやんな?」

 秀人は呑気な口調で、聞かれてもいないのに言葉を重ねる。

「天才・高山獅貴の選抜したメンバーによる、最強のロックバンドやで……?? 音楽なんて大して関心ない僕でもゾクゾクしてまうわ」













 細身で長身の、一瞬性別を見間違えそうなシルエットを視界にとらえると、様々な感情が吹き出し、その感情を包み込むように押し寄せる懐かしさが、万楼の肩を震わせた。

「……《万楼》……」

 今は自分がその名を名乗り、親しい人から呼ばれている。
 すっかりなじんで自分のものとしてしまっていたその名前はかつて、最も愛しい他人の名前だったのだ。

 最後に別れた場所とよく似た岬で、彼女は待っていた。


「久しぶりだな、響平」


「……本当に、久しぶりだね」

 日向子の願いにより、小原はすぐさま娘に連絡し、今日の面会を取りつけたのだ。
 快諾してくれたと聞いて万楼は腹の底から安堵した。

 別れた時の状況を考えれば、拒絶される可能性の方が高いと思っていたからだ。

 しかし彼女は破顔して言った。

「お前、本当にheliodorのメンバーになってくれたんだな。ありがとう」

「……うん。だけど、そうしたのはきっと、他のことを全部忘れてたからだよ」

 万楼は苦笑いする。

「ボクは海に堕ちて、たくさん思い出を海の底の闇の中に沈めて忘れてしまっていたから。
初めて恋したことも、初めて失恋したことも、その失恋に自暴自棄になって……あなたの手を振りほどいて飛び降りたことすらね」

 彼女……かつて「万楼」と名乗っていた粋は、ふっと笑みを打ち消して、真っ直ぐに万楼を見つめる。

「……響平……」

「ボクは多分、忘れたかったから忘れたんだ。だけど心の底では、忘れたことをずっと後ろめたくも思っていた……だから東京に来たんだ。
たった1つ、残っていた約束の記憶を頼りにね」

「……そして、思い出したんだろう?」

 粋は乾いた地面を黒いブーツで踏みしめながら、ゆっくりと歩みを進め、万楼のすぐ前に立つ。

「お前、あの頃と全然違うな。すごく男前になったぞ」

「そう? 今なら惚れてくれる?」

「ふっ、どうかな」

 二人は長い空白を埋めるように微笑を交わす。
 そして万楼は言った。

「あの頃、ボクは世界に失望していて、あなたのことしか愛せなかったんだ……独占したくて仕方がなくて……あなたが他の人を想ってることが許せなかった」

 じわりと蘇る苦い記憶に痛む左胸に、かばうように自分の手を重ねる。

「……どうやらボクはまたある人に恋をしたみたいなんだけど、あの時みたいに激しい気持ちにはならなかったから、感謝や尊敬や友情を恋心だと勘違いしているだけで、本当はまだあなたが忘れられないのかと思った。
だけどそうじゃない……って気が付いた」

 あふれる思いが一筋の涙となって万楼の頬を伝って落ちた。

「ボクはこの街で出会ったみんなのおかげでようやくこの世界を好きになれた……その世界の真ん中には彼女がいる……微笑んでる……ずっと笑っていてくれるなら、ボクのものになってくれなくたって構わない……そう思えるくらい愛しいんだ」

 粋は目を細めて、どこか眩しげに万楼を見つめる。

「再会早々豪快にのろけられるとはね……参った、参った」

「……ねえ、粋さん」

 万楼は涙を指で拭いながら静かに問うた。

「あなたはまだ、リーダーのことが好きなの?」




「ああ」













《第12章へつづく》

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2008/01/11 (Fri)
「とても……信じられないようなことだけど」

 万楼はそう前ふりして、言葉通りの衝撃的な事実を告げた。

「玄鳥が新しく加入するバンド、《BLA-ICA》にはね……粋さんと、うづみさんがいるんだ」

 日向子と美々は絶句して、万楼の端正な顔を凝視した。

 粋と言えばもちろん、初代・heliodorのベーシスト……そしてうづみは、蝉の幼馴染みで、一時期有砂と美々の父の新しい婚約者だった人。そしてheliodorのコピーバンドのドラマーでもあった。

 いずれもheliodorのメンバーにとってはゆかりある女性たちであるが、その彼女たちがどういう経緯で高山獅貴の新しいバンドに入ることになるというのか。

 意味がわからない。

「玄鳥が言ったんだ。だから嘘みたいでも本当の話」

 万楼は、長い睫毛を伏せて呟くように続ける。

「……玄鳥は絶対に嘘がつけない性格だからね」










《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【4】








「玄鳥とはあれから連絡がつかないんだ……うづみさんも、スノウ・ドームの管理は代理人立ててるみたいで留守なんだ……蝉でも取り次いでもらえなくて。話ができない」

 粋とはもちろん連絡の取りようがない。
 つまり、どういう事情で彼らが高山獅貴のバンドに集ったのかは不明なままだということだ。

「みんな、仲間や理解者だと思ってた人たちに裏切られたと思ってるみたいで……特にリーダーはすごく塞いでるよ。
ついさっきみんなにheliodorは解散するって宣言した時も……別人みたいに力のない目をしてた」

 それはそうだろう。
 うづみは、heliodorをずっと応援してきたファンの一人だった筈だ。
 三年も音信が途絶えていたとはいえ粋は、紅朱が性別を越えた親友だとすら感じ、認めていたバンド仲間。
 そして玄鳥は紅朱が何よりも守ろうとしていた家族だ。

 大切にしてきたもの全てに掌を返されたように思っただろう。

 そんな紅朱の心中を想像するだけで、胸が引き裂かれそうで、日向子は祈るように指をくんだ。

 美々もまた、我が身とも重なったものか、悲痛な表情を浮かべていた。

「……佳人や蝉さんも解散を受け入れたの?」

「……うん。自分たちも少なからずショック受けてる時に、あんなリーダー目の当たりにしたから、完全にね、心が折れちゃったみたいだ」

 美々は悔しそうに顔を歪めた。
 すんなり諦めようとするメンバー……特に兄を歯がゆく思う半面、heliodorの現状を思えば責めきれない……そんな複雑な感情が見てとれる。

 日向子はくんだままの指にキュッと力を込めて万楼を見つめた。

「万楼様も……諦めたのですか……?」

 声が震えてしまう。
 万楼はそんな日向子をしばし透明な表情で見つめると、やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……ボクは……嫌だ」

 ふわりと微笑する。

「諦めてなんかいないよ」

 渇れ果てたかと思われた心の泉に広がった、ひたひたと満ちる。
 そんな優しく、強い言葉だった。

「ここであきらめても、ボクには帰る場所なんてどこにもない……独りぼっちでこの世界に生まれて、独りぼっちで虚ろに生きてきたボクにとって……heliodorはようやく見つけた希望なんだ。
こんなところで失いたくないよ……それに」

 万楼は微笑したまま、見た目の雰囲気よりずっと大きくて、男性らしい力強さを感じさせる手を、しっかりくんだままテーブルの上に置かれていた日向子の冷たい手に重ねた。

「もう1つの希望になってくれた人……あなたにこれ以上悲しい思いなんてしてほしくないから」

「万楼様……」

 日向子には、万楼こそが日蝕の暗闇に差す一条の残光……温かな希望だと思われた。

 heliodorの中で一番幼く、プレイヤーとしても人間としても経験の浅い万楼が、今は誰よりも毅然と現実を受け止めて立ち向かおうとしている。

 日向子にはそんな万楼が心強く、眩しく思えた。

「どうにか解散を撤回させたいと思う。ボク一人では難しいかもしれない……だから、力を貸してほしいんだ」

「わたくしで、力になれることがありますか……?」

「お姉さんは今まででと同じでいいよ」

「はい……?」

 言葉の意味がわからずにきょとんとしていると、万楼は続けて言った。

「今までそうしてきたように、みんなと話をしてほしい。お姉さんの言葉ならきっと、みんなの心を動かす」

「わたくしの言葉が……?」

「うん。できるよ。ボクは信じてる」

 どこまでも力強く響く言葉に、日向子は自然に首を上下していた。

「……わかりましたわ」

 それに頷き返すと、万楼は美々を見た。

「ボクは……どうにかして粋さんと話がしたい。個人的にケリをつけたいこともあるしね……。美々お姉さんの人脈で、どうにかコンタクトがとれないかな」

 二人のやりとりに奮い立ったのか、美々もまた力強く頷いてみせる。

「やってみます……!」

 日向子の手重なったままの万楼の手のそのまた上に、美々の手が重ねられた。

 為すべきことは見えた。

 もう暗闇など何も恐ろしくはない。












「あ……えっと……」

「……ごきげんよう、蝉様」

「あ、うん……おはよう。日向子ちゃん」

 日向子に「蝉」の名前で呼ばれるまで、困惑していたのは、眼鏡もウイッグもつけていない素の状態だったからだったろう。
 一体どちらになったらいいものか迷ってしまったらしい。

 日向子としても初めて見た姿だったのだが、今はそこに感慨を抱いている場合ではなかった。

「……お部屋に上がられて頂いても?」

「……うん、いいよ」

 明るいとは言えない声音は、日向子が何を話に来たのかおよそ察しがついているためのようだった。

 日向子はこれも初めて、蝉の部屋に足を踏み入れた。
 今までに有砂の部屋と共有部分には入ったことがあったのだが、蝉のテリトリーはまだだった。

 釘宮の屋敷にある雪乃の部屋なら家具はもちろん机の上の備品の配置すら思い出せるほど知っているのだが。

 蝉が暮らしている部屋はとても記憶しきれないほど情報量が多く、雑多なものがあふれ、統一感なく様々な色が散らばっている。

「ごめんね、散らかってて。とりあえずベッドに座ってもらえる?」

 散らばった雑誌類などをどかして作ったスペースに日向子をエスコートする蝉。

 自分もその横に座る。


「……バンドのことで話しに来てくれたんだよ、ね?」

「ええ……万楼様からお聞きしましたの。heliodorが解散したと」

「そう……ごめんね、日向子ちゃんには応援してもらってたのに」

 聞きたいのはそんな謝罪ではなかった。

「蝉様のバンドに対する覚悟はもっと堅いものだと思っていました……だから帰って来たのではなかったのですか? わたくし、がっかりいたしましたわ」

 わざとまるで突き放すような口調で言い放つ。

「……自分でもカッコ悪すぎるって思うんだケドさ……」

 蝉はうつむいて頭を左右に振る。

「……粋の時も、今回もさ……おれ、何やってたんだろうって……自分のことばかりで、仲間のことちゃんと見てなかったのかもしれない。
ずっと本当の自分を隠して、いつかは辞めて先生の後継者になるんだから、って、どこか上べだけの浅い付き合いをしてきたんだ。
 だから気付けなかったんだよ。
もっとしっかりしてれば、こんな取り返しがつかないことになる前にどうにかできたんじゃないかって……」

 深い後悔の思いを吐露し、蝉はうなだれる。

「そんなこと思ったら、もうバンド続けてく自信がないんだよ……」

 眼鏡もウイッグもつけていない蝉は、まるで身を守る甲冑を全て剥がされたような脆さと、繊細さを感じさせ、日向子は思わずそっとその頼りない肩に頭を寄せた。

「……上べだけの付き合いをしてきた仲間のことでそんなに悩む人はいません」

 優しく説いて聞かせるように囁く。

「取り返しがつかないかどうかなんてまだわかりませんわ……諦めるのが早すぎるとは思いませんか?」

「日向子ちゃん……」

 ごく幼い頃にすらなかったほど近い距離で二人は視線を交わらせた。
 吐息が頬をかすめるような位置で。

「……あなたはいつか、危険を省みず、わたくしを冷たい湖の中から救いだして下さいました。あの時の勇気をもう一度思い出して頂けませんか?」

 蝉は、微かにその目を細めて、雪乃を思わせるような真剣な眼差しで日向子を見つめる。

「……思い出してみるよ。だから、少しだけ動かないで」

 そう言うなり、日向子の肩を掴んで自分の胸に引き寄せた。
 けして乱暴な動きではなく、壊れ物を扱うよりも慎重な、静かな仕草で。

「……蝉様……」

「あの時、こんなふうにキミの心臓が動く音を聞いて、呼吸する音を聞いて……どれほど安心したか。
……おれは弱い人間だから、すぐに自分を見失いそうになるけど……でも、キミを守りたいっていう気持ちは変わらない。
その想いがおれの勇気なんだ」

 抱き寄せた時と同じように優しく、日向子の体を自分から引き離し、その顔を覗き込んで微笑んだ。

「……ありがとう。大丈夫……おれも諦めないよ。キミにこれ以上悲しい思いをさせたりしない」

「蝉様……よかった」

 日向子もそれに微笑みで返した。

 しばしそうして見つめあっていたかと思うと、蝉は1つ深い息を吐き出して口を開いた。

「……お手数かけちゃってもーしワケないんだケドさぁ、うちの寂しがり屋のルームメイトのことも頼んじゃってもいいかなあ?」

 日向子は即座に頷いて、

「ええ、そのつもりですわ……ただ有砂様がどちらにいらっしゃるのかわからなくて」

「おれに心当たりがある……でもキミ一人だとちょっと心配だから」

 一体どこから取り出したのか見慣れたフレームの眼鏡をかける。

「私に送らせて頂けますね? お嬢様」










 繁華街のメインストリートから外れた、日の当たらない狭路に入る。
 並んだ雑居ビルの一つ、その地下に位置するお世辞にも上品とはいえないバーの入り口をくぐる。

 その場所からでも十分に店内を見渡すことができ、すぐに探し人は見付かった。
 
 明らかに場違いな日向子の入店にいぶかしげな顔をする他の客や店のスタッフをよそに、日向子は奥のカウンターに座っていた彼のすぐ隣に座った。

 少し背中を丸めて頬杖をついていた彼は、それでも日向子のほうを見ようとしない。

「……有砂様。このように早い時間からこういった場所に入り浸るのはいかがなものでしょうか?」

「……」

「仮とは言えど、あなた様は釘宮家令嬢の婚約者なのですから、いかなる時も毅然と構えて頂かないと、我が家の家名に傷がつきましてよ?」

「……そうきたか」

 有砂はふっと苦笑を漏らした。

「……酒に逃げるくらいは多めにみてほしいもんやな……女に逃げへんかっただけでも立派やろう?」

 有砂はメンバーの中では比較的酒に強いほうだった筈だが、それでも肌が紅潮し、目がうるんで見える程度には酔いが回っているらしい。
 相当な量のアルコールをあおっているようだ。

「……有砂様は、お強くなられたのではなかったのですか?
尻尾を巻いて現実から逃げ出すなど……それでは以前と何も変わりません。何がご立派なものですか」

 距離を計ろうなどとは考えてはいけない。
 ぶしつけなくらいずけずけと踏み込むくらいがこの人にはちょうどいいのだと、日向子は経験から学んでいる。

 有砂は頭痛を堪えるような顔をしながら日向子を見た。

「……強くなったつもりやった。けど、たまたま何度も運が味方してくれただけやったんかもな。
それで、これからは何もかもうまくいくような錯覚に陥ってた……けど、現実は違う」

 吐き捨てるように言った言葉に、日向子はきつく有砂を睨んだ。
 あまり迫力のある顔とは言えないが、精一杯睨んだ。

「有砂様は間違っています!!」











《つづく》

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2007/12/17 (Mon)
温もりを拒んで進む
万年雪の荒野では
あらがうほどに凍てついて
僕はもう
目を開けられない

絶望が
孤独が
虚偽が
降り積もる街では
月の光を憎んだ夜に
爪先まで冷えて
ひどく、痛んだ

秘密と罪を抱えたまま
旅を続けてきたけど
ささやかなともしびは
ここにあった
こんな僕すら変えるだろうか
唄う意味さえ変えるだろうか

いつか解けていくよ
哀しい夢も
繰り返した過ちも
愚かな執着も
目覚めたら 冬が逝く
微かな傷痕だけを残して








《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【3】









「『Melting Snow』……」

 もうまもなく日付が代わり、ニューイヤーを迎える刻限。

 ステージで奏でられる、未来への明るい希望と過去への深い思慕とが交錯するバラードは、まさに今年の最後を飾るにふさわしい曲だ。

 かつてのメンバーが生み出し、流れゆく時の中で眠っていたそれを、今のメンバーが蘇らせた。

 新しい音と、新しい思いで。

 日向子はそれを目を閉じて聞いていた。

 収容人数がキャパシティの120%を超えた会場の後方ではステージ上のメンバーはほとんど見えない。
 メンバーたちも誰一人日向子の入場には気付いていないだろう。

 日向子をライブハウスの前で下ろした伯爵は、流石に会場内に踏み入ることはなかった。
 寿司づめ状態の会場とはいえ、伯爵に気付くものが絶対にいないとは限らない。
 誰かひとりでも、伯爵の存在に気付けばパニックは避けられない。

 だがそんな現実的な問題は抜きにしても、伯爵は確かめるまでもなく結果を確信しているようだった。

 去り際、伯爵は日向子に「気が変わればいつでも連絡しておいで」と名刺の裏にプライベートナンバーを書き込んで差し出した。

 だがその時も「気が変わる」などということはありえないだろうと言外に語っていた気がした。

 だがその通りなのかもしれない。

 少なくとも日向子には伯爵の夢を応援することはできなかった。

 目を閉じて紅朱の歌声に耳を澄ます。

 初恋の人が、自らの遺伝子を最良の形で残すためだけに子どもを生み、託して死んでいったと知った時、紅朱はどんなふうに思ったのか。

 今の日向子にはリアルに想像することができる。

 好きな人が命を賭けた夢ならば、叶えてほしいと思う気持ちもないわけではない。
 だがそのために大切な人が利用されるのは辛い。
 それが正しいことだとは思えない。

 認められない。

 渡したくない。


 赤の他人の身で、「兄」である紅朱に勝るなどと言うつもりはないが、日向子にとっても玄鳥は大切な人だ。

 玄鳥のギターの音は大好きだが、ギターが巧いかどうかを基準にすることはありえない。

 heliodorのメンバーも、ギタリストとして以上に一人の人間としての玄鳥を大切に思っている筈だ。

 玄鳥とて、それがわからないわけはない。


 裏切りなどありえない。

 あってほしくない。

 そう強く思う。


 やがてゆっくりとアウトロが収束し、ステージを照らしていた白色のライトが消失する。

 惜しみ無い拍手が膨れ上がるように広がって、日向子も手が痛くなるほど叩いていた。

 しばしの余韻。そしてその後、静かにステージがまた照らし出される。

「……今のが今年のラストソングだ。もうすぐ年、明けちまうな」

 紅朱がゆっくりと今年最後のMCを始めた。

「……来年は、heliodorにとって新しい出発の年になると思う。なぜなら……」

 その時。

 会場がざわっと動いた。

 ステージがよく見えない日向子には一体何が起きたのかわからなかった。

「おい……どうした?」

 戸惑う紅朱の声。

 そして。

「兄貴の言う通り、heliodorは、新しく出発します……」

 玄鳥の声が、マイクを通して響いた。


「俺を除く四人のメンバーで」


 誰もが耳を疑う言葉を、淀みなく告げる。


「俺は……玄鳥はこのライブをもってheliodorを脱退します」

「綾っ……」

「メンバーにもファンの皆さんにも、突然の勝手な決断を押し付けてしまうことになってしまい申し訳なく思います」

 恐らくは紅朱が制止してマイクを取り上げようとしているのだろう。

 時折、激しいノイズが割り込む。

「綾……!!」

「……理解してもらおうとは思いません……非難されても構わない。……たとえ全てを失っても……大切な約束を破っても……俺は俺の進むべき道を進みます」

 もしもここが人間が密集した空間でなかったなら、日向子は床の上にへたりこんでいただろう。

「玄、鳥様……」

 相変わらずステージの上は見えない。
 沸き起こる怒号や悲鳴、すすり泣く声、マイクを通さないメンバーたちの玄鳥に向けた言葉のかけら、そんなものが耳を塞いでいく。

 頭の中を埋め尽していく。

「玄鳥様……」

 理解してもらえなくてもいい……それは、赤の他人として離れて暮らしていた彼の父親の言葉とぴたりと重なり合う。

 玄鳥はこちら側の人間だ、と伯爵は断言していた。

 そして玄鳥はその通りの行動を起こしたのだ。

「どう……して?」


 混乱の中……誰一人カウントする者がいないままに静かに年は移り変わっていた。


 そしてheliodor……黄金の太陽は、その光を遮る黒い翼のはためきに隠れ、深く暗い日蝕の時を迎える。












 メンバーと直接話すまでは意地でもとばかりに、いつまでも会場周辺から動こうとしないファンの説得に、スタッフが手を焼いていた頃、日向子は開け放たれたたまのドアの陰に立ち尽くし、楽屋に踏み込むことができないまま、呆然と中の会話を聞いていた。


「……だと、ふざけんなッ!!」

 断続的に、激しい衝突音が響く。

 誰かが椅子やテーブルを巻き添えにしながら倒れこんだような音だ。

 恐らくは紅朱が玄鳥を殴ったのだろう。

「ちょっと待って、落ち着いて。暴力はよくないよ、リーダー」

 慌てて止めに入ったのは万楼と蝉だ。

「玄鳥もさ、とりあえず黙ってないでちゃんと説明してよ。
一回バンド抜けようとしたおれが説教しても説得力ないかもしんないケド、一体どうしたってのさ?」

「……話してもわかってもらえるとは思えない……」

 話し合いすら拒絶する、静かな言葉。

「……こんなやり方が正しいとは思わないけど、こうでもしなければ……脱退なんてさせてくれないだろ。兄貴は」

「当たり前だ! 認めねェに決まってんだろうが!!」

「……たとえ兄貴や皆さんが許してくれないとしても、俺には……もうheliodorに留まることはできないんです」

 こんなことが前にもあった。

 あの時も、日向子はこうして聞いていたのだ。

 釘宮家のゲストハウスで。

 引き留めようとする高槻の真摯な説得を、まるで聞く耳も持たず退けて、伯爵はピアニストの道を放棄した。

 こんな状況になって改めて、紅朱と高槻はよく似ているのだと思い知る。

 そして玄鳥と伯爵もまた……心の深い部分が共鳴し合っているのだろうか。

 長年兄弟として暮らしてきた紅朱との絆すらも簡単に覆してしまうほどに……?

「……ジブンは、ホンマにそれでええんか?」

 ずっと黙っていた有砂が耐えかねたかのように口を開いた。

「一時の感情に流されとるだけなんと違うか?
もう一度頭冷やして考えたほうがええ」

 いつものように皮肉を含めることもなくストレートに意見するのは、浅川兄弟にかつての自分と美々のような悲劇的なすれ違いを演じさせたくないからだろう。
 しかしそんな言葉を受けても、

「……感情的な理由なんかじゃありませんよ。俺なりに、よく考えて決めたことです」

 玄鳥の決心を揺らすことはできないようだった。

「……だったら勝手にしろよ……」

 怒りと失望を混ぜあわせたような低い声で、紅朱がうめくように言った。

「……あいつのところへ行きたいならもう勝手にしろよ」

 本当は心にもない言葉を。

「……その代わり、てめェはもう弟でもなんでもねェ。二度と俺を兄貴なんて呼ぶんじゃねェぞ……わかったな」

「……ああ……よくわかったよ」

 その瞬間、あんなにも紅朱が大切にしていた、必死で守ろうとしていたものが無惨にも崩れ落ちた。

 20年という歴史など、何の意味もなかったとでもいうように、あっけなく、失われてしまった。

 日向子はかつてない深い絶望を感じていた。

 信じたくない。

 だがこれは現実。

 紛れもない現実なのだ。


 日向子はふらつく足取りで、楽屋を背にして歩き出した。

 今は紅朱の顔を見る勇気も、玄鳥と話をする強さも持てない。

 何を信じていいのかすら、わからない。

 もう泣くことすらもできなかった……。













「……日向子を泣かせるなって釘刺してやったのに……ホント、ボッコボコに殴ってやりたい気分」

 あまり穏やかでない言葉をかなり本気の口調で言い捨てる美々に、日向子は首を左右した。

「美々お姉さまのお気持ちは嬉しいですけれど……いくら殴られたとしても玄鳥様のお気持ちはきっと変わりませんわ」

 人の心を力で無理矢理縛ることはできない……かつてそう主張して父親に反発していた自分が、今はその真実の重さを嫌と言うほど味合わされている。

 溜め息を紅茶の中に溶かして飲み干すと、今更ながら泣きたい気持ちになる。

「……ねえ日向子、覚えてる?」

 美々が頬杖をつきながら、カウンターのほうに視線を流す。

「初めてあの兄弟に出会ったの、この店だったよね」

 そう。
 二人はあの席に座っていた。

 勝手にライブのチケットを田舎の母親に送った玄鳥に、紅朱が怒って文句を言っていた。

 カフェの店内で繰り広げるには少々迷惑なレベルの言い合いではあったが、今にして思えば微笑ましい光景だった。

 もうあんな二人を見ることはかなわないのだろうか。

 そんなことを思った時、入り口のドアが開いて、よく見知った顔が覗いた。

「……あ」

 万楼だった。

 向こうもすぐに日向子に気付いたようだったが、いつもの明るい笑顔で駆け寄ってくることはなく、

「……こんにちは」

 と力なく微笑んでゆっくり歩み寄ってきた。

「……ここ、いいかな?」

「ええ……」

 二人の席のすぐ隣に座った万楼は、オーダーを聞きに来たウエイトレスにいつものメロンソーダを注文した。

 スウィーツの新商品盛り沢山のメニューにすら見向きもしない彼の様子に、日向子は強い不安を感じた。

「万楼様……」

 呼び掛けたものの、何と続けていいか迷っていた日向子に、万楼は寂しげな影のある笑みを浮かべたまま、一言告げた。




「解散、しちゃった」




「え?」

 日向子と美々は、思わず万楼の顔を凝視した。

 マスカラなしでも驚くほど長い睫毛を伏せて、万楼はもう一度告げる。

「heliodor、解散した」

「……解、散?」

 何故か今の今まで日向子の頭の中にこの単語が浮かんだことは全くなかった。

 考えてみれば、ありえないことではない。
 メンバーの脱退という局面で、バンドが選ぶ道としては、比較的可能性の高い選択肢だった。

 だがなぜか、それを毛の先ほども予想することができなかった。

 粋が脱退してもheliodorは解散しなかった。
 だがそれは解散させまいと玄鳥が参入したからだ。

 玄鳥が紅朱を説得していなければ、恐らくは三年前に解散して終わっていた筈だ。

 その当の玄鳥が今度は脱退してしまったのだ……。

「……四人で、もしくは新メンバーを入れて継続は、できないんですか?」

 美々の問掛けに、万楼は辛そうに目を細めた。

「……玄鳥の脱退だけだったら、そうできたかもしれない」

「他にも……何かあるのですか?」

 続いて問う日向子に、万楼は小さく頷く。

「……うん……実は……」







《つづく》

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2007/12/11 (Tue)
「なんだか、変な感じだよね……」

 もうすぐ客入れが始まるという刻限、リハーサルもなんとか集中力を持続させたまま終わった。
 毎度のこと、個々に大なり小なりの課題はもちろんあるが、本番に不安を残すほどではない。
 それでも万楼がうかない顔で呟いた言葉の意味を、近くで聞いていた蝉と有砂は感覚として理解していた。

 紅朱と玄鳥のことだ。

「ホントだよね~、紅朱はなんか焦ってるってゆーか、マジで余裕なさ過ぎだし……」

「玄鳥は逆に不気味なくらい口数が少ないし、異様に落ち着いて見える……なんやろうな、あれ」

「うん……前に喧嘩した時とも、全然違う。何かもっと……」














《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【2】










「何もかも知った上で私に会いに来たんでしょう?」

 伯爵は確信的な微笑を浮かべる。

「そうでなければあんな脅えた目で私を見つめたりはしない」

 助手席の日向子は、うつむいたまま、そんな伯爵の顔を見られずにいた。

「……では……何もかも、真実だということですか?」

 偽りだと言ってほしい……そんな思いがまだ胸の真ん中に居座っている。

 しかし、そんな思いはすぐに粉砕されてしまう。

「heliodorの玄鳥……浅川綾が私の実の子で、アーティストとしてのエゴから鳳蝶に生ませたということなら紛れもない事実だ」

 悪びれもしない言葉。
 エゴだ、と認めているあたりが、罪の意識がない……というよりは、罪などいくらでも背負ってやるというような意味合いなのだと感じさせる。

「彼は全く理想通りに育ってくれた……きっと私の夢を叶えてくれるだろう」

 仮にも自分の息子である玄鳥に「彼」という距離のある人称を使う伯爵に、日向子は寂しさを感じた。

 父親としての情愛などまるで伝わってこない。

 沢城秀人なども、人の親としてはかなり問題のあるパーソナリティーの持ち主だったが、少なくとも望んで自分の手元においている有砂には、それなりに愛着を抱いているように見えた。

 だが伯爵にはそれすら望めそうもない。

「玄鳥様は……夢を叶えるための道具ですか?」

「そうだと言ったら軽蔑しますか?」

「……軽蔑……? いいえ、ただ……理解出来ません」

 だから脅えてしまう。怖くて仕方がない。

「大丈夫、あなたは正常だ。理解できなくていいのですよ」

 伯爵はまるで慰めるような口調でそう言うと、更に楽しそうに続ける。

「あの頃、俺を理解できたのは鳳蝶だけだった。俺も鳳蝶をよく理解していた。理解が色恋に発展することはなかったがね。俺の夢は彼女とともにあり、いつまでもその夢を見ていられると思っていたが、現実は甘くなかったよ」

 初めて「俺」という人称を使って見せた伯爵は、いつもより少し砕けた印象を与えた。

 恐らくはこれが「高山獅貴」の素顔に近い姿なのだろう。

 思わずダブって見えた彼の息子の面影に、日向子はドキッとした。

「……鳳蝶亡き後、俺はただ来るべき時を待つ身となった。退屈な日々だ。退屈に耐えて、その時のためだけに俺はひたすらこの業界に居座った。
その時のために、この世界における俺の地位を確立し、協力者を集めた」

「その、時……?」

「そう。ようやくその時がやって来る。だからあなたにも協力してほしい……実は今日あなたに会った本当の目的はそれなんだ」

「え?」

 思いがけない方向に話が向かい、日向子が驚いてみせると、伯爵は横目でちらりと見つめて、囁くように尋ねた。

「……私の下で働いてくれる気はないだろうか」

「……伯爵様の、下で?」

 ただ呆然と言われたことを反芻する日向子に、伯爵はそのうすぎぬで鼓膜を包み込むような優しく、甘やかに言葉をつむいでいく。

「まだ対外的には発表していないが、来年の春、私の新しいバンドが始動する」

「っ、バンド活動を再開されるのですか!?」

「ああ……ボーカリストとしてではないがね」

 伝説となったバンド「mont sucht」の解散以来、ソロ活動を続けてきた伯爵がバンド活動を再開する……発表されれば間違いなく音楽業界に激震が走る大スクープだ。

「『BLA-ICA(ブライカ)』というバンドだ。
あなたをその『BLA-ICA』のプレス・エージェントにスカウトしたい」

 日向子はあまりのことに物も言えずに伯爵の横顔を凝視した。

 伯爵は、笑っている。

「……どうですか? レディ」

 プレス・エージェント……つまりは広報担当者だ。
 各種メディアや企業向けにプロモーションを行う。

 情報を発信する、という意味では記者の仕事と通じる部分もある。

 伯爵は日向子の記事を読んで、その道に通じる才覚を見い出したということなのだろうが、それにしても大胆な引き抜きだ。

「……わたくしが伯爵様のバンドの広報……に?」

 もしもが少し前までの日向子だったなら、狂喜して、一も二もなく引き受けただろう。

 憧れの人・高山獅貴に認められて、その記念すべき新たなプロジェクトに参加できるなどまるで夢物語のようだ。

 しかし。

「……お受け……するわけには参りません」

 日向子は微かに震える唇で、そう答えた。

「わたくしが伯爵様の元へゆけば、傷つく方がいらっしゃいますから……」

 日向子を引き留めたもの。
 それは紅朱との約束だった。

 ずっとheliodorを見守っていく……と。

 紅朱だけではない。
 heliodorのメンバー全員、彼らと交流する中で出会った人々、美々たち編集部の仲間……今の日向子には大切な人がたくさんいる。

 裏切ることの出来ない人々がいるのだ。

 伯爵の瞳がわずかにすがめられる。


「くだらない」


 突き放すような冷たい言葉が飛び出し、日向子は目を丸くした。

「え……?」

「夢を叶えるためには常に犠牲が必要だ。全てを手放す決断の出来ない者には夢は掴めない」

 それはまだ幼かった日向子に、彼が囁いた言葉を思い出させた。

 花嫁にしてほしいとせがんだ日向子に、伯爵がつきつけた条件は、日向子が自分の力で伯爵の元へたどり着くこと。

 そして、大切な物を手放す覚悟があると認められること。

 今まさに、試されているのだ。

 日向子が二つ目の条件を満たすことができるかどうか。

 伯爵に対する想いの強さがどれだけのものであるか。

「わたくしは……」

 日向子の瞳から、また一滴涙が溢れ落ちた。

「……わたくしには手放すことは出来ません……伯爵様をお慕いする気持ちがなくなったわけではありません……けれど、今のわたくしには……」


「ええ、あなたはそう答えると思っていました」


 伯爵はしごくあっさりと告げる。

「伯爵様……」

 伯爵の顔から先程一瞬覗いた冷たさは拭い去られ、また優しげな眼差しが戻る。

「初めて会った時、私が欲しいと言ったあなたの、純粋な欲望を宿した瞳をとても愛しく思いました……けれどそれは幼さ故。
純粋な欲望を抱いたまま大人になるのは……とても難しい」

 伯爵の言葉は日向子の耳に重く響いた。

 確かに幼い子供は、自分の欲望を優先して人前で恥らいもなくだだをこねたり、泣きわめいたりするものだ。

 だが大人になるにつれて、他人との調和や、常識や倫理のしがらみを知って、欲望を抑制する術を学んでいく。

 自分の夢ばかりを優先することはできなくなるのだ。

 だが伯爵は違う。

 自分の夢のためなら他を利用することも、切り捨てることもできる。

 常識に囚われることなく、自由に、欲望の赴くままに。

 人の生き血をすすって、永遠の命を生きる吸血鬼のように。

 強かに……そして、孤独に……。

「レディ……あなたは優しく、それに正しい。……私を理解できないほうが、あなたは幸せになれます」

 応接室であんなに流した筈の涙が、今またとめどなく日向子の頬を伝う。

 最初から伯爵は、日向子が拒むことをわかっていたのだろう。

 結果の見えている賭けだったのだ。

 伯爵の理解者になりえなかった自分が、大人になって、伯爵が「愛しい」と言ってくれた純粋な欲望を無くしてしまったことが、とても悔しく思えた。

 だが。

 心は変わらない。

 自分には伯爵と同じ道を歩むことはできない。

「……わたくしはこれからも記者としてheliodorを見守り、応援していく道を選びます」

「……そうか」

 ちょうど赤信号に差し掛かり、車が止まる。

 その直後、伯爵は日向子の座る助手席にそっと手をのべて、指先でその涙を拭いた。

「……もう泣くな。泣かなくていい」

 それから、信号が変わるまでの間、車内はしばしの沈黙に包まれていた。

 ようやく涙が止まった日向子は、車が走り出したその時、沈黙に穴を開ける。

「……伯爵様は、夢を叶えたらどうなさるのですか?」

「……夢を叶えたら?」

「夢だけを追い求めていらっしゃったのでしょう? その夢を叶えてしまったらその次はどうなさるのですか? また、新しい夢を……?」

「……さあ、今はまだそんなことを考えるだけの余裕はないかもしれない」

 もちろんそれはそうだろう。

 全てを賭けられるような大きな夢の半ばで、次の夢など考えている余裕などなくて当然だ。

 しかし伯爵はこう続けた。

「……まあそれは、そう遠くない日なのだろうがね」

 日向子ははっとした。

 伯爵の夢、それは玄鳥を引き取って自分と鳳蝶の才能を受け継ぐギタリストとしてプロデュースすることだった筈だ。

 それがもうすぐ叶うということは……。

「伯爵様!? 新しいバンドのギタリストを……玄鳥様にと考えていらっしゃるのではありませんか!?」

「ええ、そのつもりです」

 伯爵はやはりあっさりと肯定する。

「……heliodorから玄鳥様を引き抜くおつもりですの!?」

「ああ、そのつもりで春先から交渉してきた。そしてあなたと同じ理由で拒まれてきた」

 玄鳥はそんなこと、一言も話さなかった。
 しいて言えば、以前日向子の部屋に宿泊した際に「すごい人から誘いの声がかかったこともある」と口にしたことならあった。
 だが、個人の感情を優先して周囲を裏切ることはできない……玄鳥はそう言っていた。

 まさしくそれは「大人」の意見だ。

 伯爵の思想と相反している。

「玄鳥様は絶対にheliodorを裏切ったりなさいませんわ……今はご出生の秘密をお知りになって、少し動揺されていらっしゃいますが……そんなことでお心を変えたりはなさいません」

「……もちろん、人の本質はそうそう変わるものではない。
だが本人が本質に気付いていなかったり、認めたくないばかりに自分を騙すことはよくある」

 伯爵は小さく笑う。

「……彼は、こちら側の人間だよ。あなたや他のメンバーとは違う」

「……そんなこと、ありません」

 むきになったように否定してしまう。

 出会ってから、それほど経過していないとはいえ、記者として玄鳥のことをずっと見てきた。

 いつも優しくて、仲間や家族を大切にしていた玄鳥が伯爵の元へ行くなど考えられない。

 それに日向子は玄鳥とも約束している。

 何があっても玄鳥のことを信じると。

「……では確かめに行きましょうか」

 まるでタイミングを見計らったように、車は狭路にすべり込み、角を2つほど曲がったところで、止まった。

「ここは……」

 日向子は助手席の窓から外を見て、思わず絶句した。

 伯爵は、気まぐれでドライブへ行こうと言ったわけではない。やみくもに走っていたわけでもない。

 目的地は決まっていた。

 今まさにheliodorがステージに立っている、そのライブハウスが日向子の目の前にあったのだ。













《つづく》

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2007/12/08 (Sat)
「……日向子さん!?」

 玄鳥は驚きに目を丸くしていた。

「どうしたんですか? こんなに早く」

 驚くのも無理はない。
 まだ知らせてあった練習の時間までは二時間近くある。

「……玄鳥様は時々、スタジオに早くお入りになって自主練習なさるとお聞きしたので」

 日向子の息は白く凍てつき、頬は寒さに紅く染まっていた。

「俺を……待ってたんですか?」

「……どうしても、早くお会いしたくて……ご迷惑だったかしら」

 戸惑ったような表情を見せる玄鳥に、日向子はそっと微笑みかけた。









《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【1】









 数分後、二人はスタジオのロビーでホットドリンクを飲んでいた。
 煙草の焦げ痕のついた長椅子に座って、ちょうど昨日紅朱とそうしたように、日向子は玄鳥と隣合っている。

 自販機で買った、缶入りのココアが冷えた身体をゆっくりと温めていく。

 けれど心はまだ震えている。
 寒さではなく、大きな不安で。

「……玄鳥様に謝らなくてはなりませんわ」

「謝る、ですか……」

「玄鳥様のことで、いくつか知っていて黙っていたことがありましたから」

「……それは、日向子さんが謝るようなことじゃないですよ」

 玄鳥は、抹茶ラテをすすりながら静かに答える。

「むしろ、秘密を背負ったことで苦しい思いをしたんじゃないですか?
……他人の家の事情に巻き込まれたようなもんだし」

「そんなことは……」

「あなたが気に病むようなことじゃないんですよ……いいんです」

 日向子は視線を床に落とした。
 玄鳥の口調はいつもと変わらず穏やかで、つむぐ言葉は日向子を気遣ったものだ。
 けれど、何故か今日の玄鳥にはとてつもなく高い壁を感じる。

 まるで「お前には関係ないんだから、これ以上首を突っ込むな」と言われたような気分だった。

 まるで、少し前の有砂や、日向子を遠ざけようとしていた雪乃と接する時に感じていたような、あの緊張感がそこにあった。


 しかし、あんな重大な真実を一度に知ってしまった以上、玄鳥にだって色々と思うところがあるのだろう……と、まだどこかで楽観的な見方をしていたのかもしれない。

 時間はかかるかもしれないが、すぐにまた元の玄鳥に戻ってくれるだろうと。

「……日向子さん」

 玄鳥がまた静かに口を開いた。

「俺はむしろ、本当のことがわかってよかったんだと思います。
隠されてきたことを恨むつもりも全然ないですよ……浅川家の家族のこと、変わらずに愛してます」

「玄鳥様……」

 玄鳥が断言してくれたことに少なからず安堵する。

「……とにかく、今は何も考えず、カウントダウンライブに全力を賭けるつもりでいます。兄貴にも、電話でそう伝えました。……あ、日向子さんは来れないんでしたね」

「ええ、そうですの……」

 高山獅貴……玄鳥の実の父親に取材するためだ。
 紅朱に宣言したように、日向子の決意は固かった。

「……伯爵様と、お話がしたいんです」

「……俺もあなたに伯爵と話してみてほしいです」

「……え?」

「あなたが高山獅貴という男に兄貴と同じように反発するのか……それとも……」

 半ば独り言のような呟きを打ち切り、玄鳥は少し冷めた抹茶ラテを飲み干した。

「……ベストを尽くしましょうね、お互いに」












 多くの人にとってそうであるように、森久保日向子とheliodorにとっても、年末の最後の一週間は、慌ただしく、日常の倍速で過ぎていった。











 12月31日。
 運命の日は容赦なく訪れた。

 コートの下におろしたてのスーツを隠した日向子は、車のウインドウごしに、たどり着いた目的地を眺めた。

 今年の春に六本木ヒルズに移転したばかりの高山獅貴の個人事務所のオフィスビルは、音楽業界及び経済界における彼の存在、ステータスを如実に物語る堂々たるたたずまいで日向子を迎えた。
 大手のプロダクションやレコード会社にもけしてひけをとることはない。


 これが、伯爵の城。


「……ついに、ここまで来ましたね、お嬢様」

 運転席から同じように外を眺めていた雪乃が感慨深げに呟いた。

「ええ……ついにお会い出来るのだわ、あの方に」

「……行かれるのですね」

 雪乃は眼鏡の奥の双眸を日向子に向ける。

「……無意味なのはわかっているのですが、お引き留めしたい気持ちです。
……あなたがこのまま、もう戻って来ないのではないかと不安でなりません」

「雪乃……」

 ただ記者として、取材に行くだけだ。
 命を落とすような危ない場所に行くわけでも、遠い国に旅に出るわけでもない。
 雪乃の発言は、あまりにも大袈裟な心配のようだったが、本人はいたって真面目な様子だった。

「せめて、傍らにいられればと思うのですが……」

「……あなたはもう行かなくてはならないものね」

 日向子は微笑んで、運転席と助手席のシートの間に、軽く身体を乗り出して、不意打ちで雪乃の眼鏡を取り上げた。

「あ」

「……日向子はライブの成功を心よりお祈りしていると、皆様にお伝え下さいませね」

 そう言って眼鏡を手渡された運転手は、ふっと苦笑いした。

「わかったよ……必ず、キミに恥じないライブにするからね」









 応接室の扉が開けられた瞬間、日向子は全身を静電気が走り抜けたかのように、震えが走るのを感じた。

 1面硝子ばりの窓からさしこむ逆光の眩しさに、視界を奪われながら、ゆっくりと歩みを進める。

 案内の役目を終えた、テキパキした女性秘書が手短く挨拶をして立ち去ると、その部屋にはもう紛れもなく、日向子と彼の二人しか存在しなくなった。


「やあ、ようこそいらっしゃいました」


 ちょうど高槻が愛用しているのとよく似た革の椅子から立ち上がり、彼はゆっくりと日向子に歩み寄った。

 日向子もまた、ゆっくりと近付き、光に包まれた部屋の、ちょうど真ん中で二人は向かい合った。


「……あ……」

 日向子はまずは丁重に挨拶して、自己紹介して、名刺を渡して……と頭の中では次に取るべき行動をシュミレートしていたが、実際にはさながら金縛りにあったように動くことも、言葉をつむぐこともできなかった。

 ただあの冷たい氷のような眼差しで見下ろされているというだけで。

 彼はそんな日向子の様子に小さく笑みを浮かべて、少しだけ膝を折るようにして日向子に少し視線の角度を近付けた。

「……どうしたのですか? そのように脅えて」

 甘い、甘い囁き。

「……昔はもっと、臆することなく、この私を見つめて下さったではありませんか……姫?」

 日向子ははっとしたように、声を絞り出した。

「……覚えていて下さったのですか……?」

「ふふ、私からすればそれほど昔の出来事ではない……まるで昨日のようです。あなたの可愛らしい細い手首に、そのブレスをつけて差し上げたあの日が……」

 日向子の胸は激しく高鳴っていた。
 自分にとってかけがえのない、人生を変えるほどの出来事だったあの出会い。
 その記憶がしっかりと伯爵の中にも刻まれていたことがたまらなく嬉しかった。

 ここに来る直前まで渦を巻いていた複雑な感情は、今この瞬間にはどこかへ消え失せてしまい、ただ純粋な感動がそこにあった。

「……お会いしたかったです……ずっと……ずっと」

 涙がじわりと滲み出して、視界を歪ませる。

「わたくしは……たどり着けたのでしょうか? 自分の力で……」

「……レディ」

 次の瞬間、日向子は伯爵の腕の中にいた。

 ふわりと温もりに包まれて、抱き締められる懐かしい感覚に、いよいよ涙があふれ出す。

「……伯爵様……伯爵様……!」

 その胸にすがって、幼い少女に戻ったかのように泣きじゃくっていた。

 こんなことが許されるのは恐らく今だけだと、頭の片隅で理解しながらも……。












「日向子の奴……今頃、高山獅貴と会ってんだよな……」

 時計を見ながら紅朱が漏らした微かな呟きを聞き留めて、万楼が嘆息した。

「ライブが終わるまで、お姉さんの話題禁止じゃなかったっけ? リーダーが言い出したんだよ」

「……ああ、そうだったな。悪ィ」

 紅朱は気まずそうにに返したが、蝉は、

「いいじゃん! どーせみんなあのコのこと気になってんだからさー。気になってんのに気にならない振りしたってリハに集中なんてできっこないし」

 ここぞとばかりに別な主張を繰り出した。

「ね、そうでしょ? 玄鳥」

 同意を求められた玄鳥は、

「……そう、ですね」

 どこか話半分のような気のない返事をした。

「……珍しく余裕やな、ジブン」

 有砂に指摘されても、

「……そんなわけじゃないですけど……俺はやっぱり今夜はライブに専念したいですから……」

 と無味乾燥な言葉を返すのみだった。
 ここしばらく、なんとはなしに玄鳥の様子がおかしいことには誰もが気付いていたが、ほとんどのメンバーはその理由を「日向子が長年憧れてきた初恋の人・高山獅貴と対面する」ことに由来するものだとばかり思っていたが、それは誤解だった。

 本当の理由を知っている紅朱は、それでも玄鳥にかけるべき言葉を見い出すことができないままに、不自然な距離を置いて接することしかできずにいた。

 ようやく綺麗に揃ったと思った五角形が、激しい歪みを訴えていた……。











「あ、あの……伯爵様、一体どちらへ?」

「折角の晦に、ただ部屋に閉じ籠って話しているのは味気無いとは思いませんか?」

「はあ……」

 さんざん泣いた後で、多少落ち着きを取り戻した日向子は、伯爵に無礼を詫びた。
 しかし伯爵は、そんな日向子をまるで慰めるかのように「外へ出ませんか? もしもドライブがお嫌いでなかったら」と耳元に囁いた。

 予想だにしない誘いに驚いた日向子だったが、申し出を受けることにした。
 しかし実際にサイドシートに乗り込むと、隣り合った距離の近さに戸惑わずにはいられなかった。

 もちろんつい先程まで胸にすがって泣いていたのだから、それに比べれば大したことではないようだが、我を失っていた時にはそれほど感じなかったものが、今は日向子の体温を確実に1度は上昇させていた。

「そういえば」

 一方ハンドルを握る伯爵は相変わらず、気品すら漂わせる穏やかな物腰。

「誤解される前に1つだけ言っておきたいんだがね……あなたの取材を受けることにしたのは、あなたの素性や、あなたとの過去とは無関係に、ただあなたの記者としての能力を評価してのことなのですよ」

 日向子は頷いた。
 編集長からも伯爵はheliodorの特集記事を読んで日向子を指名したのだと聞いている。

「あなたの文章には対象への愛情を感じる……一方的な好奇心や、不躾なほど商売気を感じさせるこなれた物書きにはないみずみずしい才能だ」

「もったいないお言葉ですわ……」

 伯爵が自分の記事を評価してくれたことは何より嬉しかったが、不意に現実の問題が脳裏に蘇ってしまう。

「わたくしの記事に魅力を感じて下さったのだとすれば、それはheliodorというバンドに魅力があるからですもの」

 そしてheliodorというバンドは、伯爵にとってただの有望な若手バンドという以上の意味を持っている筈なのだ。

「……伯爵様は、heliodorをどう思っていらっしゃるのですか……?」

 伯爵は進行方向を見つめたまま、微笑を崩すことなく呟いた。


「期待しているさ……色々な意味でね」














《つづく》

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2007/11/30 (Fri)
 ついに二桁乗りました。予定としては本編があと二章、そしてエピローグで完結です。
 うまく規定字数でまとまらなければ、12章がちょっと長くなったりする可能性はありますが。汗。

 エピローグは短いものですが6パターン書きます。それを書くために今まで頑張ってきたようなもんですからね。笑。


 そのあとは、可能であればゲーム製作に移行。
 ……まあ、2月以降、購入内定の新作乙女ゲームが毎月出るからそれどころじゃなくなる危険性も多分にありますがね。

 うちの職場でだけプチブレイク(笑)のホストマンの小説版とかも短編でやりたいかも……。



 さて10章の話に入ります。結構間があいてしまったので、書いてる本人も前の話を思い出すのがちょっと大変だったり。汗。

 沢城家の問題が片付き、釘宮家の問題が片付き、次は浅川家だー、という感じです。

 あ、別に万楼を忘れてるわけじゃないんですよ。
 万楼にはちゃんと見せ場が用意してありますから。
 ただ、蝉と有砂、紅朱と玄鳥がセット売り?なので、彼は他の人の話に食い込み辛くて影が薄い感じがするんですよね。
 なるべく出番は作ってるつもりなんですが……。



 10章の【1】は蝉の告白ですね。色っぽい意味ではない告白ですが。

 衆目に晒されながら暴露するという場面は、蝉シナリオのモチーフになっている「白雪姫」の結末、魔女が焼けた鉄の靴を穿かされて踊らされる場面をイメージしています。

 姫(=日向子)と王子(=有砂)の前で罰を受ける……という感じですね。

 まあ、結果は大団円ですけど。
 これ、ハッピーな乙女ゲームですから。笑。


 【2】です。
 秀人が珍しくいいこと言ってますが、彼はこのために出てきたようなもんです。
 日向子の結婚について、高槻の頑な意向を多少懐柔させるための布石ですね。

 蝉と日向子の関係はこういう決着になりました。これが二人にとっては最善だろうと思うんですが、いかがでしょうか。


 【3】は日向子と紅朱のしみじみトーク?
 ここは映画で言うなら長回し、って感じを意識してるんですが、1シーンだけで1回分終わることってそんなにないんではないでしょうか。

 最後は、このところ安定していた紅朱が久々にマジギレ。

 しかし彼の機嫌自体は【4】ですぐに回復しますけどね。
 最近出し抜かれてばかりの玄鳥が久々に頑張って日向子を励ましてるとこもポイントです。


 【4】から【5】にかけて玄鳥の秘密が明らかになりました。
 まあ、だいたい予想はついてたとは思うんですが(笑)、そういうことです。

 またもや坂を転がり落ちるかのような鬱展開の予感。
 楽しくなってきました(おい)。


 またなるべく早く次章を更新したいと思いますので、モチベーションアップのためにも是非、ご意見ご感想をお寄せ下さい!!

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2007/11/29 (Thu)
「どうだ……? 悪い話じゃないだろう??」

「……でも」

「……やっぱり、気が引けるか? ……大切な想い人を裏切るような格好になるから」

「それもあります……だけど、それよりなんだか信じられなくて……私が、貴女やあの人の仲間に選ばれるなんて……考えてもみなかったから」

「お前のことは色々調べたんだ。そのなりふり構わないところが、とても魅力的だな」

「……えっ」

「この計画に加わる人間は……みんな、似た者同士なんだ。他人を巻き込まずにいられないほど、強烈な願い……欲望を抱えてる」

「……欲望?」

「……ああ、欲望だよ。……欲望に忠実に生きられる者だけが、このプロジェクトには必要だって……そう、伯爵や望音は言ってる」










《第10章 吸血鬼 -baptize-》【5】











「紗さんにはもう1つの名前があった」

 ゆっくりと開いていく、禁じられた過去の扉。

 秘めて語られざるべき、真実の物語。

「伝説のバンド《mont sucht》の幻の初代ギタリスト……」

「……あげ、は……様……?」

「そう。綾が尊敬している、あの鳳蝶だ」

 普通であれば、幻のギタリストが女性だったことも驚くべき事実だったが、示された因縁の凄まじさの前では、そんなことはもう問題にもならなかった。

 玄鳥は何も知らずにして、見えないものに導かれるように自分の肉親の音にずっと焦がれていたのだ。

 ただの偶然と片付けられるようなものではない。

「紗さんはギタリストとしての夢に賭けて上京し、高山獅貴たちと出会ってバンドを組んだ……そして活動が軌道に乗り始めた頃に悪夢が襲った……それが、病だ」

 紅朱は、幼い記憶に深く刻まれた「死」を思い出したのか、いよいよ辛そうに目を伏せる。

「病が進行して、もうバンド活動も継続出来なくなり、あとはただ死を待つ身になってしまった紗さんの絶望は計り知れない。
天才薄命……という奴だったのかもしれねェが。
だがある意味で紗さん以上に、その過酷な運命を呪っていたのが高山獅貴だった。
紗さんの才能が死によって失われることを惜しんだ高山獅貴は、驚くべき提案をした……」






――鳳蝶、死ぬ前に俺の子供を生む気はないか?








「……紗さんの才能、更には……自分自身の才能をも引き継いだ《怪物》をこの世界に生み出すこと。それが高山獅貴の野望だった」

「……!」

 日向子は完全に言葉を失っていた。
 言葉ばかりではなく、感情すら追い付かず、ただ呆然と紅朱の言葉を待つしかなかった。


「俺がその事実を知ったのは……10年前の紗さんの命日だった。
いつものように墓参りに行った俺の前に、あの男が現れたんだ……驚いたぜ、当時の俺は綾と同じように、純粋に高山獅貴を尊敬してたからな。
奴が綾の父親だと名乗った時、一瞬だけ綾を羨ましいと思ったくらいだ……。
もしあいつが真実を語らず、ただ紗さんの恋人として……そして綾の血の繋がった肉親として……息子を引き取りたいと言っていたら……俺は綾を託していたかもしれない」

 だが高山獅貴は告げたのだ。
 彼の息子がどのような経緯でこの世に誕生したか。

「……綾を自分の元へ引き取って、ギタリストとして育て上げ、亡き《鳳蝶》の後釜にしたい……だからよこせってあいつは言ったんだ。
高山獅貴は綾に父親としての愛情なんてこれっぽっちも持ってやしない……綾を使ってアーティストとしての自分の欲望を満たしたいだけだ……そんな奴に俺の大事な家族を渡せってのか!? 出来るわけねェだろ!!」

 堪えきれずに感情を激して吐露する紅朱に、日向子は思わず手をさしのべ、冷たいベンチの上で固く握られた拳をくるんだ。

 震えているのが紅朱なのか自分なのか、両方なのかわからない。

 引き出されるように蘇る記憶の中で、伯爵が微笑する。

 すぐ近くで見つめた、あの氷塊のような瞳。

 彼は自分が何者かわかっていると言っていた。

 自分の求めるものがなにかわかっているから、それ以外を切り捨てることができるのだと……。


 高山獅貴が求めていたものは、早逝した天才の音色をこの世に蘇らせること。

 獅子の爪牙と鳳の翼を持つ《怪物》として……?


「……ですが、何故……何故伯爵様は、紅朱様に全てお話になったのでしょうか? 黙っていればスムーズに玄鳥様を引き取ることもできたかもしれませんのに……」

「あいつは……俺が苦しんであがくところが見たいと言ってた」

「……え?」

「……本当にそれだけの理由だったのか、それとも何か別の……」


 「意図があったのか」と続けようとした紅朱の言葉を遮るように、



「うにゃー」



 と、癖のある猫の鳴き声が、すぐ近くから聞こえた。

 反射的に鳴き声のほうへと振り返った二人は、振り返った状態のままフリーズしていた。

「うにゃ」

 呑気に楽しそうに鳴いている仔猫を、されるがままに足元にまとわりつかせ、彼がそこに立っていた。

 二人が振り返ったことにも気付いていないのではないかというほどにぼんやりした顔で……けれど、それでいて視線は確実に二人の方に向けられている。


「……綾?」


 こんなところにいるわけがなかったのに。

 それは幻でも悪夢でもなく玄鳥だった。

 紅朱ははっとしたようにいきなり立ち上がり、立ち尽くす玄鳥に駆け寄り、ぼんやりしている彼の両肩を掴んだ。

「いつからいたんだ!? 聞いてたのか!!?」

 日向子も遅れて立ち上がり、急いで紅朱に続いた。

 もし玄鳥が随分前からそこにいたなら、十分に二人の会話を聞き取ることができる距離だった。

「玄鳥様……!」

 まるで祈るような気持ちだった。

「あ」

 玄鳥は、さながら白昼夢から呼び起こされるようにはっと紅朱を見た。

「綾……?」

 まるで脅えたような声で名前を呼ぶ紅朱を見つめて、玄鳥は困惑したように口を開いた。

「あ……ごめん、俺……立ち聞きしようと思ったわけじゃなくて……シュバルツを……あの、猫を追い掛けてて……あれ、またいなく」

「猫なんかどうだっていいんだよ! 綾、お前今の話を……」

「……どこ行ったのかな……あいつ……まだちっちゃいし……危なっかしくて」

「綾!!」


 焦りを募らせる紅朱と、噛み合わない言葉を重ねる玄鳥。
 二人の姿を見ていたたまれなくなった日向子は、思わず飛び付くようにして玄鳥の右腕を掴んだ。

「……玄鳥様……!!」

「あ……日向子さん……。日向子さんも兄貴に会いに来てたんですね……俺も、兄貴に聞こうと思って来たんです……兄貴がどうして」

 言いながら玄鳥の顔はどんどんどんどん青ざめていく。

「兄貴がどうして……伯爵を……嫌って……るのか……」

「玄鳥様……」

 蒼白した顔で、ついに沈黙する。

 それこそが紅朱の問掛けに対する明確な答えだった。

 玄鳥は聞いてしまったのだ。
 自分がいかにしてこの世に生を受けたか。
 長い間隠されてきた、大きな秘密を。

「……綾……」

「俺が……伯爵と、鳳蝶の……息子……?」

 紅朱は絶望したように目を見開き、自分より上背のある玄鳥を、まるですがりつくようにして、抱き締めた。

「……違う、お前は俺の弟だ。浅川家の家族だ……!」

 必死に絞り出す声に、玄鳥はいよいよ動揺を顕著に示し、日向子につかまっているのと反対の手で自身の顔を覆った。


「……俺は……」


「玄鳥様は玄鳥様ですわ」

 日向子もまた懸命に呼び掛ける。

「玄鳥様の出生など、わたくしには何も関係ありません。真面目でお優しくて、お兄様思いの……今目の前にいらっしゃるあなたが全てですわ。だから……」

「日向子さん……」

 玄鳥はまだ平常心とはかけ離れた状態ではあったものの、ほんの少しだけ我に返ったように、二人を見た。

「……大丈夫です。すいません……少しだけ、一人にしてもらえませんか?」

 紅朱は迷っているようだったが、日向子に視線で促され「わかった」 と呟き、玄鳥の身体を解放した。

 二人が歩き出し、少し離れると、玄鳥はつい先程まで二人が座っていたベンチに一人で座り、少しずつ雲の出始めた12月の空を眺めていた。

 日向子と紅朱は何度も振り返りながらも、ただその場を去るしかなかった。














「可哀想に。さぞやショックだったのでしょうね」

 ぼんやりと空を見ていた瞳がゆっくりと視線を旋回させ、彼女の姿を見つけた。

 黒い仔猫を手に載せた、ゴシックロリィタの少女がにこりともせずに見つめている。

「……あなたが何にショックを受けたか当ててあげましょうか? 浅川綾」

 淡々とした言葉を紡ぎながら、無表情な玄鳥の隣に特に断りもなく座った。

「あなたがショックを受けたのは、傷付けなかった自分自身」

 玄鳥は、苦しそうに眉根を寄せる。

「そして湧き上がってくる認めたくない感情を、二人に悟られたくなくて一人になった……軽蔑されたくなかったから」

「っ……」

 傷口をナイフでえぐるような言葉を拒むように、玄鳥は両手で耳を塞ぎ、首を左右する。

「あなた、人より頭がいいんだからわかるでしょう? 自分の本性に逆らうから苦しいのよ。……いくら小さなツバメだと思い込もうとしても、今更無駄なの」

 薄い黒レースの手袋に包まれた手が、まるで愛撫するように、耳を覆う玄鳥の手に触れる。

「素直になってもいいわ。私はけして軽蔑しない。むしろそんなあなたが、とても愛しいとすら思う」

 そっと手を取り、下に下ろさせると、暗い色で彩った唇を耳元に寄せる。

「……教えて。あなたの本当の気持ち」

 玄鳥は目を閉じて、深く息を吐いた。



「……ゾクゾクした」



 息と一緒に、押し殺していた言葉が漏れた。


「……自分の中に伯爵と鳳蝶の血が流れているなんて……純粋に、凄いと思ってしまったんだ……自分が兄貴や両親の本当の家族じゃないことに傷付くより先に……興奮してしまった自分が、許せなかった……」

「そう……確かにそれは普通の感覚じゃないわね」

「……うん……」

「あなたは異常なのよ」

「……そうかもしれない……」


「……もうわかったでしょう? あなたはあなたが考えるような平凡な人間でも、善良な人間でもないの」

 玄鳥はいつの間にかすっかり冷静さを取り戻した、静かな眼差しを再び空へ向けた。


「……ああ。そうだね」













 その頃、紅朱と日向子は、マンションに引き返すことなく、あてのない散歩を続けていた。

 どちらがそう切り出したわけでもなかったが、そうせずにはいられない気分だった。

 歩いているうちに大分落ち着きを取り戻した日向子は、沈んだ顔をしている紅朱の横顔を見上げては、胸を痛めた。

 あんなにも強気な人が泣きそうな目をしている。

 自分が紅朱に会いに来たりしなければ、玄鳥に知られることはなかったのかもしれない。

 だがそんなことを謝ったとしても、今の紅朱には何の救いにもならないだろう。

 余計に気を遣わせるだけに違いない。


 必要なのはきっと、下手な慰めなどではない。


「紅朱様……」


 たくさん悩んで日向子は切り出した。


「……わたくしは、伯爵様の取材、やはりお引き受けしようと思います」

「……なんだって?」

 思わず立ち止まる紅朱。

「お前、それでもあいつを……」

「いいえ、そうではありません……ただ、直接会って確かめたいことがたくさん……たくさんありますの」

 強い決意を真っ直ぐぶつける。

「heliodorの皆様のライブには参加できません……けれど、離れていても心は一緒ですわ。
応援しています。いつも、変わることなく……」















《第11章へつづく》

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2007/11/26 (Mon)
 結局、heliodor+αのクリスマスパーティーは、言い出した本人が一人欠席という形で、なんとも微妙な空気のまま開宴された。

 途中で何故か反対方向へ向かう紅朱のバイクとすれ違った玄鳥たちはもちろん、いきなり意気消沈した日向子を見た他のメンバーやうづみもすぐに異変を察した。

 詳しい理由を話さず、自分のせいで紅朱を怒らせてしまったと、ひたすら謝る日向子を問いつめることは誰にもできなかった。

 ただ、波乱の聖夜はまだ終わったわけではなかったことを誰もが感じていた。









《第10章 吸血鬼 -baptize-》【4】










「いいんですよ、こういうことはうちじゃ俺が一番得意なんですから」

「でも……」

「任せて下さいよ」

 空になった皿に手際よく、そして綺麗に新しい料理を盛り付けていく玄鳥は、確かに主婦を通り越して一端のシェフのようだった。

「日向子さんこそ洗い物なら後で俺がやりますから、ピアノ室に戻って大丈夫ですよ」

「まあ、そういうわけには参りませんわ……それに」

「……働いてるほうが、気が紛れる……とか?」

「……」

 黙ってしまった日向子に、玄鳥はそっと微笑みかける。

「……女心って難しいけど、俺、日向子さんの考えていることだけなら最近少しわかるようになったみたいです」

「……玄鳥様」

「少し話しませんか……ここのマンションは、屋上に上がれましたっけね?」










「ちょっとナーバスなところもあったと思いますよ……今日は兄貴が蝉さんや粋さんに出会った日と同じ、聖夜なんですから」

 外の空気を吸って来るとだけ言って上着を羽織って出た二人を、誰も問いつめず、引き留めなかった。
 玄鳥の意図はわかりきっていたし、玄鳥がしなければ多分、違う誰かがそれをしたに違いない。

 そしてそれをするのはこの場合、玄鳥が最適任者であろうことも明白だった。

 冴え冴えした夜空を見上げながら、二人は何もない屋上の真ん中にたたずんでいた。


「兄貴はいつも、大事なものを『抱え込み』たがるんです……」

「……そう、ですわね」

 日向子は思い出す。

 紅朱は大事なものを『抱え込む』。
 逃がさないために。
 失わないために。

 縛り付けてでも留めようと。

 そしてそんな紅朱の最も手放し難いものが、今目の前にいる青年なのだった。

「……だけど、正直……兄貴の伯爵に対する感情の正体は、俺にも掴めません……どうしてあんなに嫌っているのか。昔は違ったのに……」

「そう、なのですか?」

「はい……俺がmont suchtを聞き始めたのは兄貴の影響でしたからね……」

 今の紅朱からは想像も出来ない事実だ。

「不思議なもので、本気で音楽の道に進みたいと言い出したのと同時期に、兄貴は高山獅貴を毛嫌いするようになったんです」

 日向子は記憶を掘り起こして考える。

 以前、玄鳥は言っていた。紅朱が音楽の道に進むと言い出したのは中学の時だと。

 中学の時といえば、紅朱も確かターニングポイントになったと語っていた時期だ。
 玄鳥の本当の父親が訪ねてきて、以来紅朱は玄鳥が本当の父親を選ぶことをひどく恐れてきたという。

 そして、もし自分が違う道を選んでいれば……とも言っていた。

 違う道、とは、音楽以外の道……という意味なのだろうが、言われた時にはどういうことか理解できなかった。

 しかし今改めて考えてみると、ある一つの解釈が生じる。


 玄鳥はいつも紅朱の後ろについてきた。

 紅朱がギターを手にしたことで、玄鳥もまたギターを手にした。

 紅朱が始めたから、玄鳥もそれに続いたのだ。

 紅朱がそのことを悔やんでいたのだとしたら、玄鳥が音楽を通して実父に近付いてしまう、と思ったからではないか?


 もしそうならば結論は出る。

 玄鳥の父親はミュージシャンなのだ。

 それも、恐らくは大物で……玄鳥が憧れを抱くような人物。

「……まさか……」

 胸がドキドキしていた。

 あまりにも現実離れしている。

 だが、現実であれば全てが符合する。

「……日向子さん?」

 いぶかしげに名前を呼ぶ玄鳥をじっと見つめる。

 鼓動が止まらなくなる。

「どうしたんですか?」

 何か答えなければと思うのだが、何も出て来ない。

 玄鳥は一歩日向子に歩み寄った。

「……兄貴のこと、何か心当たりがあるんですか? ……それなら教えてくれませんか??」


 知りたがっている玄鳥。

 けして知られたくない紅朱。

 玄鳥には知る権利がある。

 だが少なくともそれを第三者の口から語ることはできない。

「……わたくしには何も申し上げられません」

 ましてや、確証すらないのだ。

「ただ……どうか忘れないで下さい」

 白い息を吐きながら、日向子は左手の薬指を玄鳥に向けてそっと差し出した。

「ゆびきり、しましたわよね?」

「……ええ」

 玄鳥は優しく微笑し、自身の小指をそっと絡ませた。

「……俺は、あなたを悲しませない」

「わたくしは、玄鳥様を何があっても信じますわ」


 再び結ばれる大切な約束。

 冷えきったお互いの指にはっとする。

「……そろそろみんなのところへ戻りましょうか」

「そうですわね……」






 部屋へと戻る道すがら、二人はほとんど同じことを考えていた。

 「真実が知りたい」

 それがいかに残酷で、無慈悲な現実であったとしても……。











 幾度目かのチャイムで、ようやく部屋の主が顔を出した。

「っ」

 つり目を大きく見開いて、

「なっ、おま……!」

 驚愕に声を失っていた。

「申し訳ありません、アポイントメントを取ろうと思ったのですけれど、事前に連絡しても今のあなたは会って下さらないだろうと、蝉様がおっしゃっていましたので……」

 昨日の今日ということもあり、おまけにおよそ人前には出られないような年季の入った寝間着のジャージ姿で髪もボサボサの紅朱は、非常にバツの悪い表情で日向子を見つめていた。無言のままで。

「……紅朱様はわたくしの顔など見たくもないとお思いでしょうけれど」

 日向子はそんな紅朱を真っ直ぐ見つめていた。

「わたくしには、これで本当に紅朱様に嫌われてしまったとしても確かめたいことがあります」

 日向子の眼差しに宿るただならない強い意志は、やがて紅朱の心を少し、動かした。

「……10分、待っててくれ。とりあえず、着替えくらいさせろ」

 ボソリと呟いて、一度ドアを閉ざすと、部屋の中へと戻っていった。

 とりあえず、いきなり門前払いにされなくてよかった、と日向子は心から安堵した。

 だがそれは、もう後戻りの許されない状況になってしまったことをも意味した。

 日向子は手首を飾るブレスを見つめて、気を抜けば逃げ出してしまいそうな自分を震い立たせた。

 










 きっちり10分後、ボサボサだった髪をどうにか見られるようにセットしてグレーのダウンジャケットを羽織った紅朱が出て来た。

「……外でいいか? ちょっと寒いかもしれねェが」

「ええ、大丈夫ですわ」

 まだ少しバツの悪い顔をしたまま、微妙な早足で歩き出した紅朱に、日向子は置いていかれまいとしっかりついていく。

 冬の風に煽られる紅朱の深紅の髪は、後ろから見ているとまるで炎が揺らめくように見えた。

 その髪にみとれながら歩いていたため、不意に紅朱が立ち止まった瞬間、日向子は危うくその背中にぶつかりそうになった。

「ここでいいか」

「あ、はい」

 辿り着いた場所は、公園と呼ぶにはあまりにもささやかな石畳の広場で、東屋のような形状をしている。
 囲うように配置された葉の落ちた寂しそうな植え込みの真ん中に、古いベンチがあった。

 そこに紅朱と隣合って座ると、なんだか都会の喧騒から隔てられたような不思議な気分になり、日向子は澄んだ高い空を見上げた。。

「……素敵なところですわね」

「……たまに、来る。なんとなく気に入ってんだ。誰かと一緒なのは今回が初めてだけどな」

 紅朱もまた視線を空へ向けている。

 ばかみたいに並んで、青空を見つめていた。

「……昨日はカッとなっちまって悪かったと思ってる」

 空を見たまま紅朱は言う。

「頭冷やして考えた。……俺がお前の仕事の内容をどうこう言うなんて傲慢だったよな。
……高山獅貴クラスの大物の取材を任されるなんて、お前にとっちゃこの上ないチャンスだろ……何より、奴はお前の目標だったわけだしな」

 日向子は、そっと視線を空から地上へ……青から赤へと移行させた。
 紅朱の横顔は、あまりにもせつなそうで胸が苦しくなる。

 どうして彼は、高山獅貴の名を口にする度に苦しそうな顔をするのだろう。

「……迷惑ですか?」

 横顔に問掛ける。

「……これ以上、あなたの心に踏み込むのは……迷惑ですか?」

 紅朱は空を映したその目を細くすがめた。















「……留守か……」

 いくらチャイムを鳴らしても出て来ない部屋の主に、玄鳥はとうとう諦めを選択した。
 じっさい部屋の中は10分ほど前から無人だ。
 20分ほど前に、違う客が来たために、見事に行き違いになったのだ。

 諦めてマンションの敷地から出てすぐ、

「……あれ?」

 黒い小さい毛玉みたいなものが、坂の上からまるで転がるようにして向かってきて、玄鳥の脚の下で止まった。

「うにゃ」

 猫だ。

 銀の首輪をした黒い仔猫。

 アーモンド型の目で玄鳥を見上げている。

「……その首輪……シュバルツかい?」

「うにゃー」

 肯定するように鳴くと、また転がる毛玉のように素早く移動を開始する。

「あ、こら。そっちは車道だ。危ないよ」

















「……俺は多分、お前に全て打ち明けたいんだと思う……」

 紅朱は呟くように言った。

「打ち明けたら俺は少し楽になれる気がするから……だけど、打ち明けたなら、そのことできっとお前を傷付けてしまう……だから話したくなかった」

 その美声に苦渋がにじむ。日向子は首を左右に振る。

「……傷付く覚悟はしてきました。だから答えて下さい」

 振り返った紅朱の、色素の薄い透けるような瞳を真っ直ぐに見つめて、そして、その問いを投げ掛けた。

「……玄鳥様の本当のお父様は、伯爵様ですか?」


 紅朱は驚いたふうでもなく、最初から全てを悟っていたような顔をして、静かにその問掛けを受け止め、答えた。


「……そうだ」


「っ」

 日向子の心臓は、大きく高鳴った。

「綾は……俺の叔母、浅川紗(アサカワ・タエ)と高山獅貴の間に生まれた子どもだ」

「……お二人は、ご結婚を……?」

「……してねェよ。紗さんは一人で綾を生んで、死ぬまで一人で育てようとした」

 覚悟をしていたことなのに、頭の芯がビリビリ痺れていた。

 恋焦がれてきた人には自分と同じ年の息子がいて……しかもその息子はとても身近な人で。

 血の気が引いていく……。

「日向子」

「あ」

 紅朱が、おもむろに手を握ってきたことで我に返る。

「……これ以上、話さないほうがいいか? 無理するな」

 心配そうに問いながら、強く強く手を握ってくれる……ただそれだけのことが日向子を踏みとどまらせた。

 逃げてはいけない。

「……いいえ、全て聞かせて下さい……伯爵様と、紗様はどのようにして愛を育まれたのですか?」

 紅朱の顔が今まで以上に苦しそうに歪められた。


「愛を育む……か、そうだったらどんなによかっただろうな」

「え……?」

「……二人は恋人同士なんかじゃなかった……愛し合って授かった子じゃねェんだよ……!! アイツは……!!」

 紅朱の心をこうも頑にしてきたのは、まさにその重すぎる真実だった。
















《つづく》

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2007/11/26 (Mon)
 今話題の、新しいwebサービス、「2manji」に挑戦中。
 有名人気取りで二万字のロングインタビューに答えられるという、なんか不思議なサイトです。笑。
 いろいろ質問や機能が増えていくみたいなんで、まだ発展途上な感じ。
 ブログの宣伝を兼ねて、恥をしのんで(笑)heliodorなりきりインタビューを作成してるんだけど、まだまだ2万字達成には時間かかりそう。
 あと、私がやり方わかんないだけかもしれないんだけど、新しく答えた解答がどうしても上にきちゃうんで、最後の質問から順にやってって、最後に自己紹介という感じになりそう。
 携帯からは見れるかわかんないけど、一応リンク貼っておきまっせ。

http://2manji.jp/y2keggs

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2007/11/13 (Tue)
「なんだ、まだ誰も来てねェのか」

「はい、紅朱様が一番乗りですわ」

 突発クリスマスパーティーの最初の客が着いた時、日向子はパーティーの会場として解放するピアノ室の準備を進めていた。

 といっても料理や何かは買い出し部隊が到着するまで用意できないため、テーブルを用意した以外は、少し物を動かしたり、掃除したりという程度だが、紅朱は壁の色が他と違う一角を目にとめて、

「日向子、アレは撤去したのか?」

 と問うた。

 アレとは以前訪問した時に見た、日向子の大切なタペストリーのことだ。

「ええ、今夜は」

 日向子がそう答えると、紅朱は苦笑した。

「あんまり俺に気ィ使うな……後で綾に睨まれちまうだろうが」











《第10章 吸血鬼 -baptize-》【3】










 やることはやりつくした日向子は、簡易ベッドをソファーがわりにして、座っていた紅朱の横に人一人分くらいの間隔を空けて座った。

「皆様遅いですわね」

「ああ。綾たちは美々を迎えに行ったから仕方ねェが、蝉と有砂は何やってんだろうな。
まさか久々の再会に号泣しながら抱き合ってるわけでもねェだろ」

 冗談で言ったわりに、実はなかなかいい線をついている。

「まあ、あいつらの遅刻癖は今に始まったことじゃなかったか……」

 などと言いながら、日向子から見ても紅朱はすこぶる機嫌がよさそうだった。

「やっと全員でカウントダウンライブの練習が出来ますね?」

「……ああ、そうだな」

 もしもあのまま蝉がheliodorを離れてしまっていたら、紅朱は粋の時と同じように心に深い傷を負ってしまったに違いない。

 もちろん紅朱だけではない。
 他の仲間たちも、そして日向子も。

 5人揃ってこそのheliodor。
 誰が欠けたheliodorも見たくはないと、今、日向子は改めて感じていた。

「……そういや、ホテル出る前に、お前の親父さんに声かけられたぞ」

「まあ、お父様が……?」

 よもや式でのことを咎められたのではないかと不安になってしまった日向子に気付き、紅朱は軽く首を横に振った。

「別に説教されたわけじゃねェよ。睨まれはしたが……あれはあの人のデフォルトなんだろ??」

「ええまあ……では何を言われたのですか?」

 紅朱はふっと目を細めて小さく笑う。

「よろしく頼む、ってよ。蝉のこと」

「……まあ」

「よくわかんねェけど、緩和されつつあるんじゃねェか? 親父さんのロックバンド嫌い」

「……そうだと嬉しいのですけどね」

 日向子は肩をすくめて笑った。

 実際はロックバンドが嫌いであることには変わりはないのかもしれない。
 だが高槻は蝉の選択を認め、紅朱の心意気を認めたのだろう。
 そして仲間たちの絆と、日向子の願いも……。

「まあ、有砂の親父とすら親しく付き合えるくらいだから、意外とキャパが広いのかもな」

「そうですわね」

 これにはあっさりと躊躇いなく同意する。

「わたくしは今回の一件で父を色々な意味で尊敬するようになりましました」

「だろうな……まあ、それにしても、お前の婚約が延期になってほっとしたぜ。かなりヒヤヒヤしたからな」

「ヒヤヒヤ……ですか」

 日向子が何の気なしに反芻すると、紅朱は何故かはっとしたように一瞬大きく目を見開き、

「いや、ヒヤヒヤってのは……その……お前が寿退社なんかされちまったら、heliodorの記事は誰が書くんだ、って話になんだろーが」

「もしそうなったら、美々お姉さまが後任になって下さると思いますから、ご心配にはおよびませんわ」

「……そりゃあ、美々は信用できる相手だとは思うが……」

 紅朱は深く息を吐いて、日向子を見つめる。

「俺が認めたheliodorの担当記者はお前なんだ。
特集の連載が終わっても、お前にはずっと俺たちの行く末を見てってほしい」

「紅朱様……」

「……いいよな?」

「……はい」

 思いもかけず、真剣な口調で告げられた言葉。

 それはベッドの上というシチュエーションもあいまって、日向子にいつかの停電の夜を思い出させていた。

 逃げ込んだ個室の中で、身を寄せ合って。

 失いかけた自信を取り戻させてくれたのは紅朱の力強い優しさと、伝わる体温。

 少し不器用で誤解を受けやすい性格だけれど、仲間のため、夢のため、家族のために紅朱はいつもひたむきだった。

 今ならそれは父親の高槻と同じ生き方だと理解できる。

 高槻とは血の繋がった親子でありながら幼い頃より、親子らしい交流などほとんどなかった。

 かつては母も健在で、雪乃や小原、他の使用人たちにも囲まれて。

 それでもどこかで寂しさを感じていた。

 街を歩く、自分と同じくらいの子どもが父親と手を繋いで楽しそうに歩いているのが羨ましかった。

 父親の大きな手に包まれたいと思っていた。

 そんな時に現れたのが「伯爵」だった。

 あるいは探し求めていた父性を伯爵の中に見ていたのかもしれない。

 だからずっと追い掛けてきたのだろうか……?


 求めてやまなかったのだろうか??



 それはわからないが、あの停電の夜に紅朱にはっきり認めて貰ったことがあんなにも嬉しかったのは、彼に父の面影を重ねたからだ。それだけは確信出来る。

 本当に認めてほしかったのは父だったのだから。


 反発しつつも渇望した、父という大きな存在。
 

 それを理解出来た今、日向子はまた新たな気持ちで伯爵への想いや、紅朱との関わりを見出していけるような気がしていた。

 父親の代替ではなく。

 もっと別な……。

「どうした? 日向子」

「いえ……」

 怪訝な顔をする紅朱に、クスリと微笑む。
 ふと、相変わらず艶やかで綺麗な彼の深紅の髪に目がいく。

「紅朱様……また、おぐしに触らせて頂けませんこと?」

「は? いいけど……あれから、まだ大して伸びてねェぞ?」

「近くで見ているとどうしても触りたくなってしまいますの」

 日向子は空いていた人一人分の距離をすり寄り、そっと手を伸ばして、紅の絹糸のような髪に指先で触れる。

「……紅朱様のおぐしは相変わらずお綺麗ですわね」

 髪を撫でながらうっとりしたように笑みを浮かべる日向子に、紅朱は何故か落ち着かない表情で視線を泳がせる。

「……そんなに好きなのかよ。変な奴だな……」

「うふふ、ですけれど……女としてはほんの少し嫉妬してしまいますわね」

「なんでだ? お前だってこんなに……」

 紅朱は思わず日向子の髪に触れて、すぐに離した。

「あ、悪ィ」

「……紅朱様?」

 日向子は更に距離を詰めて、紅朱の顔を覗いた。

「……なんだかいつもとご様子が違いますわ」

 いつも真っ直ぐ日向子をとらえていた紅朱の鋭利な刃物を思わせる2つの瞳が、今日は何故か明後日のほうばかり見ている。

「……別に何も違いやしねェよ」

 いつも耳に心地好い美声が、心なしか上擦っている。

「でも……」

 更に言い募ろうとした時、ベッドの傍らに無造作に置かれたままの日向子の携帯が着信を告げる。

 着信音が毛嫌いしている男の新曲であることにも構わず、紅朱は、

「ほら、電話だぞ。早く出ろよ」

 と救いを得たような安堵の色が滲む声で告げる。

「あ、はい……では失礼致します」

 日向子はほんのわずかな引っ掛かりを感じながらも、促されるままに携帯電話に手を伸ばした。

「あら……編集長様ですわ」

 ディスプレイを確認して、通話ボタンを押す。

「はい、森久保です……はい……」

 編集長が、携帯ごしに妙に興奮した口調で早口にまくし立てるのを相槌を打ちながら聞いていた日向子は、やがて相槌を忘れ、瞬きすら忘れ、呆然とした表情になっていた。

「日向子……? どうした?」

 紅朱も異変を察し、小声で問うが、それすら気付かない様子の日向子。
 どうやらそのまま一方的に通話は終了してしまい、やがて携帯を持つ手を静かに下ろした。

「……日向子!?」

 少し強い口調で再度問う紅朱。

 日向子ははっと我に返り、紅朱をゆっくりと見た。

「……伯爵様が、RAPTUSの取材をお受けになると……」

「……高山獅貴、が?」

 眉間に皺を寄せる紅朱。日向子は困惑したような声で更に続ける。

「……取材記者に、名指しでわたくしを……」

「……お前を担当にしろ、ってのかよ」

「にわかには信じられないことなのですが……わたくしのheliodor特集記事を読んで下さって、大変気に入って頂けたようだと編集長が……」

「……へえ……よかったじゃねェか。もっと喜んだらどうだ?」

 紅朱は多分に含みのある口調でそう言った。
 しかし日向子は素直に受け止めて、目を伏せた。

「はい……でも……」

 日向子にとってそれは、あまりにも現実離れした展開だった。
 
 伯爵の元へ続く長い旅の第一歩だと思っていた初めての大役であったheliodorの特集連載。
 それがいきなり当の伯爵の目にとまってしまうなど、誰が予想していただろうか?

 予想だにしない途方もない奇跡に直面すると、人間の感情はなかなか追い付いてこないものらしかった。

 日頃人を疑うことなどほとんどない日向子も、まだどこかで「担がれているのではないか?」と疑わずにはいられなかった。

「信じられませんわ……そんなこと、とても……」

「……ありえねェことじゃねェさ……」

 紅朱はひどく険しい表情で吐き捨てるように呟いた。

「紅朱様……?」

「……で、やるつもりなのか? 取材」

「それは……もちろん、またとない機会だと思います……。
編集長様も、珍しく手放しで激励して下さいましたし……期待もして下さっていました……でも」

「何か引っ掛かるのか?」

「……それが、取材の日時が、指定されていて……」

 日向子は膝上においていた手を丸めて、きゅっと握った。

「12月31日……大晦日の夜なのです」

「っ、な」

 紅朱は絶句した。

 大晦日の夜といえばもちろん、heliodorのカウントダウンライブが予定されている。
 彼等の新たな始まりとなるであろう特別なライブだ。

 紅朱はその突き刺すような視線を日向子に真っ直ぐ向けた。

「……だったら断れ」

 冷ややかな声。

「今さっき約束したばっかりだろ? ……お前はheliodorを……俺たちをずっと見てってくれんだろ?
だったら……迷うなよ」

 まるで責め立てるような言葉が次々と日向子の胸に突き刺さる。

 heliodorの大切なライブに参加できない……などと言えば紅朱が怒るのはわかりきったことだった。

「……今すぐ編集長に電話して、誰か他の奴に代わってもらえよ。
それで高山獅貴が納得しなくても知ったことか」

 有無を言わさない剣幕に、日向子はまだ片方の手の中にある携帯電話に目を落とした。

 確かに断るなら早いほうがいい。
 編集長はすぐに納得はしないかもしれないが、よく話せばどうにかなる筈だ。

「でも……」

 だが日向子には、躊躇われた。

 夢にまで見た憧れの人からさしのべられた手を振り払うなど、辛すぎる。

 伯爵への思いを見つめ直すためにも、是非かの人と会いたい。話をしたい。

 それが正直な気持ちだった。

 だが、heliodorと伯爵の間で迷う日向子の態度は紅朱の感情を逆撫でる。

「……あいつを選ぶのかよ、日向子……」

 かつて感じたことのないほどの、紅朱の強い怒りを感じて、日向子は微かな身体の震えを覚えた。

 一言「もちろんheliodorを選ぶ」と言えば済む。

 しかし、それができなかった……。

「……」

 無言のままうつむくことしかできない日向子に、紅朱は舌打ちしてベッドから立ち上がった。

「……見損なった。もう勝手にしろ」

 言い捨てて部屋を出ていく彼を引き留める言葉など、今の日向子には何もつむぐことができなかった。














《つづく》

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* ILLUSTRATION BY nyao *